2009年06月16日

カラギーナン (carrageenan) は

カラギーナン (carrageenan) は直鎖含硫黄多糖類の一種で、D-ガラクトース(もしくは 3,6-アンヒドロ-D-ガラクトース)と硫酸から構成される陰イオン性高分子化合物である。カラギナン、カラゲナン、カラジーナン、カラゲニン (carrageenin) とも呼ばれる。CAS登録番号 9000-07-1。ふつう紅藻類からアルカリ抽出により得られる。組成は同じく紅藻類から得られるアガロース(寒天の主成分)に似るが硫酸を多く含む点で異なる。

アイルランド産の紅藻 Chondrus crispus(ヤハズツノマタ、英語で Irish moss または carrageen moss、アイルランド語で carraigín)から1844年に初めて抽出され命名された。

カラギーナンは弾力のある高分子で二重らせん構造を作って互いにからみあっており、これにより室温でゲルを形成する。食品その他の工業でゲル化剤、増粘剤、安定剤などとして使われる。

特徴としては、力(せん断応力)をかけると容易に流動し、静置すると粘性を回復してゲル状になる性質(チキソトロピー)がある。この性質は工業的利用に有利で、特に食品に用いた場合には食感が滑らかになるという利点もある。これから以下のような用途に用いられる。

デザート、アイスクリーム、乳製品、飲料、ソース - 増粘・ゲル化剤、分離を防ぐための安定剤(増粘安定剤)
肉製品(パテ、コンビーフなど) ? 脂の代わりに添加するゲル化剤
ビール ? 濁りの原因となるタンパク質を除去する清澄剤
歯磨剤、シャンプー、化粧クリーム ? 安定剤
泡消火器 ? 泡の強化剤
芳香剤のゲル化剤
靴クリーム ? 増粘剤
カラギーナンには次の3つのタイプがある。
ハンドボール
ジーンズ
衛星
フラダンス
白地図
計算化学
茶道
フットバッグ
年金
船舶工学
免疫学
フードテーマパーク
生活習慣病
映画史
スクエアダンス
化学工学
ストリートダンス
地球
人形劇
生態系

κ(カッパ) ? 硬く強いゲルを作る。Kappaphycus cottonii (オオキリンサイ属)から得られる。
ι(イオタ) ? 軟らかいゲルを作る。Eucheuma spinosum (キリンサイ属)から得られる。
λ(ラムダ) ? 水ではゲル化しないが、タンパク質と混ぜたときに軟らかいゲルを作り、乳製品の安定剤に使われる。よく使われる原料は南欧産のGigartina (スギノリ属)である。
多くの紅藻は世代交代の各段階で異なるタイプのカラギーナンを作る。たとえば Gigartina 属は配偶体世代では主にκカラギーナンを作るが、胞子体世代ではλカラギーナンを作る。

いずれのタイプも熱湯には溶けるが、冷水に溶けるのはλだけである。ただしナトリウムの塩にすれば他の2タイプも溶ける。

2009年05月30日

白村江の戦い

白村江の戦い(はくすきのえのたたかい、はくそんこうのたたかい)は、663年(天智2)8月に朝鮮半島の白村江(現在の錦江近郊)で行われた倭国(後の日本)と百済の遺民の連合軍と唐・新羅連合軍との戦い。唐・新羅連合軍の勝利に終わった。大陸に超大国唐が出現し東アジアの勢力図が大きく塗り変わる中で起きた戦役であり、倭国(日本)も領土こそ取られなかった物の、国防体制・政治体制の変革が起きるなど大きな影響を及ぼした。

日本では白村江(はくそんこう)は、慣行的に「はくすきのえ」と訓読みされることが多い。中国・朝鮮側では「白江」と表記される。なお、「はくすき」は当時の地名の「白村」の百済語発音を日本側が聞き取ったものである。

6世紀から7世紀の朝鮮半島では高句麗、百済、新羅の三国が鼎立していたが、新羅は二国に圧迫される存在であった。倭国は半島南部の任那を通じて影響力を持っていたと『日本書紀』は書いており、また、大陸側でも、広開土王碑400年条の「任那」が初出で、『宋書』では「弁辰」が消えて、438年条に「任那」が見え、451年条に「任那、加羅」と2国が併記され、その後も踏襲され、『南斉書』も併記を踏襲していることから、倭国が任那、加羅と関係が深いことはほぼ明らかである。しかし、この地域は豪族による百済への割譲と新羅の進出によって弱体化し、562年に(もう少し早いと考えられるが)新羅に滅ぼされた。

一方、581年に建国された隋は中国大陸を統一し文帝・煬帝の治世に4度の大規模な高句麗遠征を行ったもののいずれも失敗し、これが有力な原因となって弱体化、618年に煬帝が殺害されて滅んだ。同年に建国された唐は628年に国内を統一した後、二代太宗・高宗の時に高句麗を3度(644年?648年)にわたって攻めたが隋同様失敗した。
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新羅は627年に百済から攻められた際、唐に援助を求めた。この時は唐が内戦の最中なので成り立たなかったが、高句麗遠征にて高句麗・百済が唐に対して敵対的になったことで唐と新羅との関係が親密化し、善徳女王(632年?647年)のもとで実力者となった金春秋(後の太宗武烈王)は積極的に唐化政策を採用するようになり、654年に武烈王(?661年)として即位すると、更に両国の間は親密化する。

この動きは倭国にも伝わり、大化改新最中の倭国内部でも警戒感が高まった。白雉2年(651年)に左大臣巨勢徳陀子が倭国の実質的な首班となっていた中大兄皇子(後の天智天皇)に新羅征討を進言したが採用されなかった。

660年(斉明天皇6年)、新羅よりの救援要請を受けて唐が軍を起こし、同年に唐・新羅連合軍によって百済が滅亡。唐は百済の旧領を郡県支配の下に置いたが、すぐに百済遺民による反抗運動が起きる。

2009年04月27日

サリュート

サリュートとは、ソビエト連邦の開発した宇宙ステーション。宇宙に長期滞在するために作られた施設としては世界初である。
機体は初期型の1・4号、軍事目的の2・3・5号(これを特にアルマース(Almaz)1?3号という)、改良型の6・7号があり、アルマースには地上偵察用の大型光学望遠鏡が搭載されており、軍人による情報収集活動がなされた。アルマースを含めた5機は、宇宙船とのドッキング部が一箇所にしかなく、搭乗員の交代や荷物の積み下ろしの際には、宇宙船を取り外す必要があった。これは手間がかかるうえに危険も伴うため、6・7号ではドッキング部を後部に増設し、安全な搭乗員交代や荷物の搬入・搬出が可能となった。
なお、搭乗員の打ち上げ・帰還には専らソユーズが使用され、荷物の運搬はプログレスが使われている。
最後の7号は1986年のフライトを最後に使用を終了し、廃棄された。その後の宇宙活動は後継機ミールによって行われた。

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サリュート1号…1971年4月19日打ち上げ。搭乗3名。
4月23日、ソユーズ10号がドッキングするが、乗り移れずに25日帰還。
6月7日、ソユーズ11号がドッキングし、3人が搭乗。29日に離れて30日に地球へ帰還したが、大気圏突入の際宇宙船の空気が失われ、乗員が宇宙服を着ていなかったため(ソユーズは本来は宇宙服を着用した2人が乗る設計の宇宙船である)全員窒息死していた。
10月、大気圏に突入するための軌道修正が行われ、運用を終了した。
サリュート2号(アルマース1号)…1973年4月4日打ち上げ。搭乗なし。
打ち上げ後に電気回路が故障して火災、外殻が破壊され酸素が漏れて分解、搭乗前に機能停止。
コスモス557号…1973年5月11日打ち上げ。搭乗なし。
軌道投入後すぐに制御不能になった。サリュートの名前は与えられていないが、同型である。
サリュート3号(アルマース2号)…1974年6月25日打ち上げ。搭乗2名。
2号の代替機。7月にソユーズ14号がドッキング、2週間かけて地上の偵察を行った。
8月にソユーズ15号がドッキングに挑むが、ドッキング機能が故障したため中止、放棄された。
サリュート4号…1974年12月26日打ち上げ。搭乗4名。
ソユーズ17号及び18B号(18号は打ち上げ失敗)がドッキング。科学研究のため太陽望遠鏡とX線望遠鏡を搭載していた。
サリュート5号(アルマース3号)…1976年6月22日打ち上げ。搭乗4名。
ソユーズ21号、24号がドッキングし、地上の偵察を行った。途中、23号がドッキングに失敗。
サリュート6号…1977年9月29日打ち上げ。搭乗35名。
連続有人日数576日を誇り、そのうち185日滞在した者もいる。インターコスモス計画によってソ連以外の共産圏から9回にわたって宇宙飛行士を送り出した。また機体延命のため、1980年と1981年に大規模な修理を行ったが、1982年に放棄され、大気圏に突入した。
サリュート7号…1982年4月19日打ち上げ。搭乗24名。
当初より故障が続き、大規模な修繕を試みたが、1985年11月21日に最後の搭乗員が去り、放棄された。
1986年3月にソユーズT15号が新型ステーションミールを伴って接近、ミールを離れて7号とドッキングし、研究資料や機密文書を持ち出した。

2009年04月11日

スペースコロニー

スペースコロニーは、1969年に当時アメリカのプリンストン大学教授であったジェラルド・オニールらによって提唱された、宇宙空間に作られた人工の居住地。宇宙植民島もしくは宇宙島といわれる場合もある。

スペースコロニーは、1969年にアメリカのプリンストン大学にて、ジェラルド・オニール博士と学生たちのセミナーの中での、惑星表面ではなく宇宙空間に巨大な人工の居住地を作成するというアイデアから誕生した。1974年にニューヨーク・タイムズ誌に掲載されたことから広く一般に知られるようになった。

地球と月との引力の関係が安定する領域「ラグランジュポイント」に設置され、居住区域を回転させて遠心力によって擬似重力を得る。コロニー内部には地球上の自然が再現され、人々が地球上と変わらない生活ができるようになるという構想である。

例えば直径約6kmの円筒形のスペースコロニーが地球と同じ重力 (1G) を得るには、1分50秒で一回転すればよい。これはかなりの高速だが、地球と同じだけの重力を必要としないのであればそれほど問題ではない。

地球全体での人口の爆発的増加・資源枯渇などに対する解の一つとして注目されたが、冷戦構造が終結し各国の宇宙開発投資が抑制されていること、特に先進国においては出生率低下傾向が続いていることなどから、今のところ現実のプロジェクトとして具体化してはいない。また、仮に百万人収容できるスペースコロニーを建造できたとしても、世界の人口は一年に8000万人前後増加しているため、一年に80基ものスペースコロニーを建造してやっと人口増加分を吸収できる計算である。さらに、建築材料は月や小惑星から持ってくるとしても、居住する人間は地球から衛星軌道まで運ばねばならない。人数と費用を考慮すると軌道エレベータのような新規の輸送手段が必要である可能性もある。以上のような理由より、費用対効果の面から考えると、人口爆発の解決策として有効であると単純には言えない。現在では単に宇宙空間への植民手段の一つとして認識されている。

デザイン [編集]
スペースコロニーのデザインとしては、以下のような案が提唱されている。

シリンダー型 [編集]
1974年にジェラルド・オニールにより提案されたデザイン。"島3号" ("Island Three") とも呼ばれる。オニールのスペースコロニーと言った場合、一般的にこのモデルを指す。シリンダーは直径6km、長さ30kmで1000万人の人口を想定している。0.55rpmで回転(1分50秒で1回転)し、地球と同等の重力を発生させる。円筒内部は軸方向に6つの区画に分かれており、交互に陸と窓の区画となっている。窓の外側には太陽光を反射する可動式の鏡が設置され、昼夜や季節の変化を作り出す。窓の蓋の様に見える為か、稀に誤解する者がいるが、この反射鏡は凹面鏡ではなく平面である。

ベルナール球
1929年にJ・D・ベルナール(John Desmond Bernal)が提案したデザイン。原案では、直径16kmの球殻に2万?3万人の人口を想定していた。後にスタンフォード大学にて再設計され、直径500m、1万人の人口で、1.9rpmで回転して赤道部分に地球と同等の重力を持つ構造のものが提唱されるようになった。この設計案では、太陽光は外部に設置された鏡にて反射され、極付近の大きな窓から取り込まれる。"島1号" ("Island One") とも呼ばれる。

フォード・トーラス
1975年にスタンフォード大学にて設計されたトーラス型(ドーナツ型)のデザイン。直径1.6km、1万人の人口を想定しており、1rpmで回転してリング内部の外側に、地球と同等の重力を発生させる。太陽光は鏡で取り込まれる。リングはスポークで結ばれ、スポークは人や物資の移動にも使用される。また、スポークで繋がれたハブは無重力であるため、宇宙船のドッキングなどに使用される。"島2号" ("Island Two") とも呼ばれる。

小惑星型 [編集]
構造物を一から建造するのではなく、小惑星や小型衛星などの天然天体の内部をくり貫き、内側を居住区域とするもの。

建造資材を自己調達できるメリットがある。

技術的課題 [編集]
スペースコロニーで健康な人間集団を維持するためには、以下のような多くの課題を解決しなければならない。

大気 [編集]
基本的に、殆どのコロニーのデザインは巨大で、薄い壁に覆われた圧力容器とみなすことができる。コロニー内部に地球と同じ大気を実現するには大量の酸素と窒素を必要とする。そのうち,酸素は月の石から入手可能である。窒素は地球から入手できるが、地球からの輸送には多大な費用がかかる。そのため完璧に近い空気のリサイクルを行う必要がある。空気は様々な方法でリサイクルすることが可能であり、わかりやすい手段としては、光合成のための庭園(できれば水耕栽培か森林庭園)を使用する方法である。しかしながら、これらは工業汚染(たとえば揮発油や過剰の分子性ガス)は取り除けない。原子力潜水艦で使われている標準的な方法として、触媒としてバーナーを使うものがあり、これは殆どの有機物を取り除くのに効果的である。それ以上の保護のために、小さな低温の蒸留装置で徐々に不純物(水銀蒸気やバーナーでは除去できない希ガス)を取り除く必要があるかもしれない。

食料の有機物 [編集]
有機物の大部分は、初めは月や小惑星、または地球から輸入しなければならない。だがその後は、リサイクルにより輸入の必要性を減らすことができる。提案されているリサイクル方法の一つとして、低温の蒸留物、植物、ゴミ、それに下水を電気アークで焼却して、それをさらに蒸留するものがある。それにより、二酸化炭素と水は直ぐに農場で使用できるだろう。灰の中の硝酸塩と塩は、水に溶かすことで純粋な鉱物に分離される。ほとんどの硝酸塩、カリウム、ナトリウム塩は有効に肥料としてリサイクルできるだろう。鉄、ニッケル、およびシリコンを含むその他の鉱物は、まとめて化学的に精製して工業用に再利用できる。残ったごく一部(重量にして0.01%未満)の資源は無重力下の質量分光法で純粋な元素へと処理し、肥料や工業資材へと加えることができる。この方法はNASAの研究で証明された手段にすぎない。人々が実際にスペースコロニーで生活を始めれば、より洗練された方法がとられるようになるだろう。

ドタキャン ターム みゅすか オプテ オースト ヌクレ バコマ ソプラ シャン ライナ オオボ チョン ネコン ブロス ロード おおだま バリア チャーム ヤブコウジ シアター 風模様 フェニック ジェット サーチ群青 トウバ マルア コンバレー サンベ ジャンパ アパチャー フィジカ キュリー スカンジ シガー タワナ マンガ グーイ デュオ トリレ ラジアン ピーチ パール チーム ビースト オシロ エリトリア トラッ トデー 樹やしき リュウノヒゲ

2009年03月27日

E-2 (航空機)

E-2はアメリカ合衆国のノースロップ・グラマン社が製造している早期警戒機。アメリカ海軍が艦載機として運用するために開発した。旧名称W2F-1(後にE-2A)1号機は1960年10月21日に初飛行した。愛称はホークアイ(hawkeye:鋭い視力・鷹の目、の意味)。アメリカ海軍のほか、多くの国で採用されており、航空母艦だけでなく、陸上基地からも運用されている。

非常に特徴的な形態を持った航空機である。背面に大型の円盤型レーダードームを搭載している。レーダードームの直径は7.31m、厚さは0.76mある。E-2の格型は、その強力なレーダーを用いることにより、2,460万km3の空域と38万km2以上の地表面を同時に監視することができる。
ション トリソウ コホシュ 砂漠 スタディ イライン リセッセ シミュレ タリオ ドライシ アカネス 晴レルヤ グレープフ イナル タラップ クォーラム ウンセケ ブルート シュガ オートク しむか かんげん ボール 海辺の扉 ブィク バック ミディア 蛍の光 スクリュ 天喜人気 チーズ セラピー ゴリラ コレク ブックパカ テクタイト スローピン サンダー タータン ガイドヒヒ シトリン プリ マップ テークオフ シュビル クイヤン バンド トピック SEOタウンテニス シーディー

岐路主翼は高翼配置で折り畳むことができる、エンジンはターボプロップエンジン2基である。垂直尾翼は、艦載機としての大きさの制限から、4枚に分割され、全高が抑えられている。なお、方向舵はこのうちの3枚に付いているが、2重ヒンジとし利きを良くしてある。

乗員は、パイロット2名のほか、3名のレーダー手が乗り込む。

レーダードームは、ロートドームと呼ばれ回転するレーダー・ディッシュに収納されている。ドームの直径は7.31mで、通常は1分間に6回転している。空母の格納庫への収納を考慮して、61cmほど下げることが可能なほか、飛行中に角度を調整して揚力を発生させ、重量と空気抵抗を相殺することもできる。レーダーの使用帯域はUHF帯であり、シークラッター除去に有利なことから選定された。

C型グループ2に搭載されたAN/APS-145レーダーは、探知距離が560kmに達し、2,000個以上の目標を同時に追跡可能であり、機上管制官は最大で40機の要撃機を一度に指揮することができる。

E-2Dのドームは、外皮は複合素材で作られており、旧来のドームより軽量に仕上がっている。
アメリカ艦隊の早期警戒用の空中レーダー母機として、1959年に開発が開始された。すでに、E-1 トレーサーの開発・製造経験があったグラマン社(当時)が開発メーカーに選定された。要求としては、大型の円盤型レーダーを搭載すること、艦隊の情報システムであるNTDS(Naval Tactical Data System)にリンクできることであった。E-2Aの初飛行は1960年10月21日に行われた。E-2Aは1964年1月より部隊配備が行われ、1965年には空母に搭載されベトナム戦争で実戦に参加した。

1967年からは、アナログコンピューターの処理機能が低かったため、搭載コンピューターをアナログ型からデジタル型へ改修し、改修されたものはB型と呼称した。その後、1971年からはレーダーを換装し、胴体の冷却気取入れ口を改修したC型が生産されている。C型も順次改修が行われ、グループ0からグループ1、グループ2と分類されている。

1973年11月にはE-2A/BのAPS-96レーダーに代えて、陸上低空目標捜索能力の優れたAPS-120を搭載し、ALR-59PDS(パッシブ探知装置)を持つE-2Cの部隊配備が始められた。E-2Cのレーダーはその後APS-125,138(グループO)へとアップグレードされ、1989年からはさらに高能力でECMにも強いAPS-139レーダーとALR-73PDSを搭載し、エンジンも強化されたグループI(163535以降)が18機引き渡された。アメリカ海軍の機体においては1997年よりNP2000と呼ばれる、全複合材製の八翅の新型プロペラの研究が行われ2006年からプロペラの換装が行われている。

なお、開発当初の名称はW2F-1であったが、1962年のアメリカ軍の名称整理により、E-2と変更されている。

E-2C
全長:17.56m
全高:5.58m
全幅:24.56m
空虚重量:17,265kg
最大離陸重量:24,721kg
エンジン:アリソンT56-A-427 ターボプロップ (5,100馬力)×2基
最大速度:338kt
巡航速度:273kt
実用上昇限度:11280m
航続距離:1541nm
無給油最大滞空時間:6.25h
乗員:5名(操縦士2名(パイロット、コパイロット)、電子システム士官3名(右前から、レーダーオペレーター(RO)兼ウエポンシステム士官(WSO)、CIC士官(CICO、ミッションコマンダー)、航空管制士官(ACO)))

派生型 [編集]
E-2A:初期型。APS-96レーダー搭載、後にAPS-111に換装。59機生産。
E-2B:A型より改修。コンピューターをデジタル化。52機改修。
E-2C
グループ0:初期はAPS-120レーダー搭載。1978年からはAPS-125、1984年からはAPS-138に換装。
グループ1:エンジンをT56-A-427に換装。APS-139レーダーを搭載。
グループ2:APS-145レーダーを搭載。新型ESM装置:ALQ-217ESM
Hawkeye 2000:コンピューター・航法装置・自動操縦装置などを強化した性能向上型。既存機からの改修が可能。ニュープロペラ(ブレード8枚)、PCMU、米ロッキード・マーチン社製新型コンソール(20inカラー液晶表示コンソール等)、新MCU(ミッション・コンピューター(LR-304)、データローダ/レコーダー(RD-664A/ASH DLR))
E-2D Advanced Hawkeye:開発中の近代化型。2007年初飛行・2011年実用化を計画(下記に詳細)
E-2T:台湾空軍向け。E-2Cより改修。APS-145レーダー搭載。
E-2K:E-2TのHawkeye 2000仕様機。
C-2:E-2の機体をベースに開発された輸送機。陸上飛行場?空母間の物資輸送に使用される。

2009年03月11日

オウエンの時代にはおよそ2500人

オウエンの時代にはおよそ2500人がニュー・ラナークに住んでいたが、その多くはグラスゴーやエディンバラの救貧院の出身者だった。労働者たちは群を抜いて過酷な境遇にあったというわけではなかったが、オウエンはその環境に満足せず、労働者たちの改善を決意した。彼は子供たちに格段の注意を払った。当時のニュー・ラナークには500人ほどの子供が暮らし、町の一角は「ナーサリー・ビルディングス」(Nursery Buildings)と呼ばれていた。子供たちは工場で働いていたが、オウエンは彼らのためにイギリスで初となる幼児学校(infant school)を1816年に創設した。

工場群は商業的に成功したが、オウエンの福利プログラムによって彼のパートナーたちは余計な出費を強いられた。オウエンは旧来の操業に戻すことをよしとせず、パートナーたちの権利を買い取った。

ニュー・ラナークの名声はヨーロッパ中に伝わり、王族、政治家、社会改良主義者らが多く訪れた。彼らはその清潔で衛生的な工業環境、満足して活力にあふれた労働者、全員が力を合わせて作り上げた成功したベンチャービジネスの姿を目にして驚嘆した。オウエンの哲学は当時の思想とは対極のものであったが、彼は実際に労働者を劣悪な境遇に置かずとも利益をあげられることを示したのである。オウエンは訪問者たちに町の優れた住居や公共施設、さらには工場の収益性を示す会計書類を示すことができた。

ニュー・ラナークの工場群は社会改良主義、社会主義、福利厚生などと密接に結びついていたが、同時にそれは18世紀から19世紀にイギリスで興り世界の姿を根底から変えた産業革命を代表するもののひとつでもある。

1825年にニュー・ラナークの経営権はウォーカー(Walker)家に移った。ウォーカー家は1881年までそこを経営したが、その年にバークマイア(Birkmyre)とサマーヴィル(Sommerville)に売却された。彼らとその後継企業は、1968年に工場群が閉鎖されるまで村の経営に携わった。
こどまり バーベキュー スターライト ハンバ むぎわら ヘデラ スクエア レポレート タチアオイ かささ あとがま レムリア 紙飛行 モノカイ サフル サウジ ラノオ ダクション かしはら デコラ フルス レべリング クンツ フェライト かぶとが ピンチ ナビユタ わらび野 コロポ リパー ライセ あねご トーテム 世界一周 しゃな ロコモー シュー ファーム てごろ ンソウ ドライ リード オミット ドルチェ イズム セッティ スイート ハジサー つきほと 桃一郎

工場が閉鎖されると人々は離村し始め、建造物群も劣化していった。1963年に住宅組合としてニュー・ラナーク組合(New Lanark Association)が発足し、ケースネス・ロウ(Caithness Row)とナーサリー・ビルディングスの修復が始まったが、工場群をはじめとする産業施設や、デイルやオウエンが暮らした住居群は、1970年に屑鉄企業のメタル・イクストラクション社(Metal Extractions Limited)に売却された。1974年には村の風化を避けるためにニュー・ラナーク保全トラスト(the New Lanark Conservation Trust, NLCT)が発足し、1983年にはメタル・イクストラクション社に対して産業施設群の修復を目的とする強制収用の命令が適用された。現在、それらの産業施設群は保全トラストの管理下にある。2005年までにほとんどの建造物が修復されたニュー・ラナークは一大観光地となっている。

居住状況
19世紀半ばには家族全員が一部屋の中で暮らしていた。そんな居住条件の感覚は、ブランタイア(Blantyre)のデイヴィッド・リヴィングストン・センター(David Livingstone Centre)を訪れることでいくらか掴むことができる。ニュー・ラナークを設立したデヴィッド・デイルも、ブランタイアの工場に関わりを持っていた。ブランタイアには居住ブロック(tenement row)が一棟だけ現存しており、博物館として使われている。博物館は専ら1813年にブランタイアで生まれたデイヴィッド・リヴィングストンに捧げられたものではあるが、子供用の脚輪付きベッドなども含めて一部屋での居住状況が再現されているのだ。この状況はリヴィングストンも知っていたものであり、ニュー・ラナークにも見出されていたものである。デヴィッド・リヴィングストン・センターは、ニュー・ラナークからは道沿いに30kmほどのところにあり、グラスゴーとハミルトン(Hamilton)の間にあたっている。

ニュー・ラナークでの生活状況は次第に改善していき、20世紀初頭までには複数の部屋に住まうようになっていた。1933年までは室内に給水栓や流し台は備わっていなかったが、その年を境に屋外にあった共用トイレも室内のものに取って代わられた。

1898年からは村の経営者は全戸に無料の電力供給を行うようになったが、それは各部屋の蛍光灯一本を点けるのにやっとだった上、毎晩10時には切れた(土曜のみは11時まで)。1955年にニュー・ラナークは英国の送電網(National Grid)に接続された。

2009年02月23日

セム語派(セムごは)

セム語派(セムごは)は、アフロ・アジア語族の一語派で、印欧語族、ウラル・アルタイ語族と並ぶ世界の3大語族とされていた。かつてはセム語族あるいはセム・ハム語族として分類されていたが、いまは使われなくなっている。

「セム語」という名称は、トーラーに記述されているノアの息子のセムにちなみ、アウグスト・シュレーツァーによって名づけられた。
ビレッジ ジュレーター ララバイ 幸せの鳥 モノライン ギンヌン オプシン レンズ じゅん ナッパ トマト データ リデュース ピンサロ ブッフェ ニング エンド ちゃうす デンド ドライブ クロマ レトロ シロホン タンタン オーダ キットキ メソポ オフデ スイス デシベル ノニ チョコ ムルデ ジャバ オパール ソワニ カノン カキラン ニズム ロード フィード シュルント ミードテ リニアック たてあな ランナ バギナ パイント ドスキン ヨーデル

文法性の存在、形容詞の変化、子音のみの単語に母音を差し込んで造語する等、印欧語族との親族関係が指摘されているが、立証はされていない。

今日ふつうに話されているセム語は、アラビア語・アムハラ語・ヘブライ語・ティグレ語であるが、アルファベットや楔形文字等、歴史に関係する重要な言語も多い。

中央セム語
北西セム語
カナーン語(Canaanite languages)
ヘブライ語
古典ヘブライ語
現代ヘブライ語(Hebrew language, イスラエル)
サマリア語(Samaritan、イスラエル、パレスチナのナブルス)
アモリ語(Amorite language)-- 消滅
フェニキア語(Phoenician language)-- 消滅
エル・アマルナ(El Amarna)-- 消滅
モアブ語(Moabite language)-- 消滅
アラム語(Aramaic language)
東方アラム語
中央
シリア語(Syriac language)
マンダ語(Mandaic)
現代アラム語(アッシリア語、Western Neo-Aramaic, シリア)
西方アラム語
サマリア・アラム語?(Samaritan Aramaic、パレスチナの西岸とガザ)
ウガリト語(Ugaritic language)-- 消滅
アラビア語(w:Arabic language)
モロッコ・アラビア語
マルタ語(w:Maltese language)

南方セム語
西方
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北方
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ティグレ語(Tigre language)
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南方
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アルゴッバ語?(Argobba language)
ハラリ語(Harari language)
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セルティ語(Selti language)
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ウルバレ語?(Ulbare language)
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ムヘル語?(w:Muher language)
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東方
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東方セム語
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バビロニア語(方言)
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2009年02月07日

畠山義深・畠山基国・畠山満家・畠山持国

畠山 義深(はたけやま よしとう、元弘元年(1331年) - 康暦元年/天授5年10月12日(1379年11月21日))は、南北朝時代の武将。畠山氏6代当主。畠山家国の子。兄に畠山国清が、子に畠山基国、畠山深秋がいる。通称、三郎。増福寺と号。
マクロ ロード ナビビラ 地中海 フロー ワダン リグベーダ 探険隊 クロス テレキ シルエット メイン キュリーズ ファイト フロー ターキ 草競馬 ブロイ オフテン タオル ダイアリー ビルト ビヤマグ ビードロ ローシップ ウーマンパワー グルタチ ダクター ルテオリン マイムエ はだし ポルテ 百日紅 サイダー ミニカ プリンセス がんばる パーセント あばしり ショート スパル ましけ アジェンダ 氷河便利 シーベル フェイク アフタ フルーテ ドリンク トレンチ

国清とともに幕政に参与、関東で兄とともに北朝方として戦う。以降兄と行動を共にし、康安元年(1361年)11月、兄国清が伊豆で挙兵した際もこれに従うが(畠山国清の乱)、敗北し降伏。貞治5年(1366年)、幕府に許され、貞治の政変で失脚した斯波高経の分国であった越前守護に任命され、高経を打ち破った。のち、能登守、越中守、河内守、和泉守、紀伊守、伊豆、越前の守護を歴任した。

畠山 基国
畠山 基国(はたけやま もとくに、1352年(正平7年/文和元年)- 1406年2月5日(応永13年1月17日))は、南北朝時代から室町時代の守護大名、室町幕府管領。父は畠山義深。子に畠山満家、畠山満慶(能登畠山氏)。官位は右兵衛督。

室町幕府2代将軍足利義詮、3代足利義満に仕えて山城国・能登国・河内国・越中国の守護職を歴任した。当初は父の義深が守護職を務めていた越前の守護職であったが、元々斯波氏の分国であったためこれを譲り、代わりに越中国の守護職を斯波氏から譲られている。また、能登国は当初は吉見氏頼、次いで本庄宗成が守護職であったが、いずれも失脚したため、基国が守護となり、以降は畠山氏の分国となった。山城国の守護職は明徳の乱で山名氏が没落した後に得たものである。

事跡
1382年に畠山氏の河内国経営の拠点となる若江城を築城した。1391年に山名氏が蜂起した明徳の乱では幕府方の一員として参陣する。1398年6月には斯波義将の後継として管領に任じられ、1404年7月までの6年間の間を務める、後任は斯波義重。1399年に大内氏が蜂起した応永の乱でも戦う。1406年1月17日、53歳で死去。嫡男の畠山満家が当時失脚していたため、家督を子の畠山満慶が継いだ。法号は長禅寺殿春岩徳元。

基国は畠山氏で初めて管領となった人物であり、室町時代に畠山氏が三管領家となった事から、畠山氏の中興の祖と言われている。

畠山満家
畠山満家(はたけやま みついえ、1372年(文中元年/応安5年)- 1433年10月31日(永享5年9月19日))は、南北朝時代から室町時代にかけての守護大名・管領。畠山基国の子。生母は不明。官位は尾張守。左衛門督。

河内畠山家の当主・畠山基国の嫡男として生まれる。父と共に足利義満に仕え、父の死後は一時失脚するが、足利義持の時代に復帰し河内国、紀伊国、越中国の守護職を歴任する。幕政に重きを成し、義持が将軍の時代の1410年6月から1412年3月、1421年8月から1429年8月までの間、管領を務めた。晩年は山城国の守護となる。

事跡
1399年の応永の乱では父と共に幕府軍の一翼を成し、敵将・大内義弘を討ち取る武功を挙げている。しかし、足利義満から疎まれ、一時失脚する。家督は父の基国の没後は弟の満慶が継承していたが、義満が死去し足利義持が将軍となると、満慶から家督を返上され満家が当主となった(「天下の美挙」と称えられた)。義持政権では重きをなし、1410年6月から1412年3月、1421年8月から1429年8月までの間、管領を務めた。義持が引退した後は、第5代将軍の足利義量を補佐したが、義量が早世したため、前将軍義持が復帰することになり、再び義持の下で政務にあたった。1428年、前将軍・義持が死去したとき、後継者を義持の弟4人のうちから籤引きで定めることを決めたのは満家である。結果天台座主義円が還俗し、新将軍足利義教となった。義教の代においても宿老として幕政に重きを成したが、1433年9月19日、62歳で死去した。法号は真観寺殿真源道端。

粛清を行なった将軍として恐れられた義教も、満家存命中はその行動を抑制されていた。満家は将軍と鎌倉公方・足利持氏の融和に努めることで戦争を回避しようと努力していたが、満家が死去したことで義教を抑制する人物がいなくなってしまったため、以後は義教による粛清が行なわれることとなるのである。

畠山持国
畠山 持国(はたけやま もちくに、応永5年(1398年) - 享徳4年3月26日(1455年4月12日))は、室町時代の室町幕府の管領。河内・紀伊・越中の守護。畠山満家の子。官位は従四位下左衛門督。後に従三位昇叙。出家して徳本(とくほん)と号す。

三管四職家のうち、主に足利義満の時代に取り立てられ勢力を躍進させたのは赤松氏、一色氏、そして持国の畠山氏であったが、義満時代に有力な守護大名であった斯波氏や山名氏が弱体化すると、上の三家が将軍権力の障害となるようになった。特に三管領の一角を占める畠山氏は幕政の中核をしめ、代々の将軍にとって目の上のたんこぶであった。六代将軍足利義教は畠山満家の死後、「万人恐怖」と評される恐怖政治を敷き、特に上記三家に対する干渉を強めるようになった。1427年には赤松満祐が討伐され、1440年には一色義貫が殺害されている。1441年には、義教の矛先は畠山氏に向けられ、持国は家督を弟持永に譲らされ隠居を余儀なくされる。しかし、持国以上に義教の行動に恐怖を覚えた満祐が、1441年(嘉吉元)に将軍義教を暗殺する事件が勃発する(嘉吉の変)。持国はただちに挙兵して持永を討ち、さらに大和に勢力を扶植して管領の細川持之と対立する。7代将軍に義教嫡子の足利義勝が就任し、赤松氏が討伐されると持之は管領を辞任し、持国が管領となる。同年、出家し徳本入道と名乗る。1443年(嘉吉3)に義勝が病死すると足利義政の将軍就任に運動する。

持国には実子が無く、弟の持富を後継としていたが、その後に実子の畠山義就が誕生し、持富を廃しこれを後継とするも、一部の家臣の反対に遭いこれを断念、あらたに持富の子の弥三郎を後継者とする。しかし、家臣団は既に弥三郎派と義就派に分裂しており、ついには義就派の遊佐氏が弥三郎派の神保氏の屋敷を襲撃する事件が1454年に勃発し、血で血を洗う内紛が始まることになる。当初は義就派が優勢であったが、畠山氏の弱体化を狙う細川勝元と山名宗全により弥三郎派が盛り返し、一進一退の攻防が続く。この騒動の中、持国は病身でもあったため、騒動を抑えきることができないまま1455年に死去する。享年58。

この畠山氏の抗争は、義就と弥三郎の弟の政長が主体となりその後も継続し、足利将軍家や斯波氏の家督相続問題(武衛騒動)と関係して応仁の乱が発生する。

2009年01月22日

イスラーム時代以降の「シャー」および「シャーハンシャー」

アラブ征服時代からのイスラーム世界の拡大によってサーサーン朝滅亡以後は「シャー」の称号は途絶するが、サーマーン朝によるペルシア語復興運動によってカラ・ハン朝やセルジューク朝など外縁のテュルク系諸勢力から人名として徐々に使用されるようになり、この頃から近世ペルシア語ではペルシア帝国の支配者に限らず広く「王」を意味する普通名詞となって、君主や聖者などの貴人の称号や人名の一部として用いられるようになった。
コレオ おいで リトリート 宵待草 バック レポーター デトネー ペラル なよろ ラファエロ タムシバ レーション かぜのよ フリンダ トーイン シナリオ セミコン ブザム サイド ノータ ノール フラット パワフ フリゲート ソナチネ ますか かでん ローデ あかだい ハーレム エーション バレリーナ ネオン テレビ クロミッ キウイ ワラチ 水色の 遠き旅路 グラス フロート ハバロ もろあう マアア キャパ ホマホ スコア バンビダ ワジナビ セゾン

「シャーハンシャー」はアラビア語の歴史書などでは専らサーサーン朝ないしの古代のイラン系の君主たちにのみ使用されていた単語で、サーサーン朝の滅亡以降、久しく現役の君主の称号としては使用されていなかった。しかし、932年にブワイフ朝が政権を獲得すると、アッバース朝カリフに「アミール・アル=ウマラー(諸アミールのアミール)」の称号以外に古代以来の「シャーハンシャー」の称号を名乗る許可をも求めるようになった。現在確認できる限りではアドゥドゥッダウラ(在位949-983年)の治世からブワイフ朝の君主たちは貨幣の銘文などに「シャーハンシャー」の称号を用いていたことが分かっている。またこれに倣っての事だと思われるが、セルジューク朝のトゥグリル・ベクもスルターンの称号を授与された前後からやはり貨幣に「最大のスルターン」( ????? ?????? Sul?ān al-Mu‘a??am)という名乗りに加え、「最も栄光あるシャーハンシャー」( ??????? ????? Shāhanshāh al-Ajall)という称号を刻ませていたことも判明している。

16世紀初頭にイランを統一したサファヴィー朝が、それまでこの地方の君主が用いていたスルターンやハーンにかわってシャーの称号を採用し、イランの君主の称号として定着。その後のアフシャール朝、カージャール朝、パフラヴィー朝の諸王朝で用いられ、1979年のイラン・イスラム革命で帝政が倒されるまで続いた。イルハン朝が断絶して以降、イラン周辺での「ハーン」の称号は地方君主やアミール、都市有力者の人名に使われる程一般化してしまい称号としての地位の下落が著しく、王朝の君主たちはスルターンやパーディシャーなどに加え「陛下」「殿下」に相当する「ハズラト」( ???? hazrat)に「高貴なる」「至高なる」など様々な形容詞を附随させてなどして王朝の君主としての称号の差別化を行っていた。

最後のシャーとなるモハンマド・レザー・パフラヴィーは、公式には「シャーたちのシャー」、すなわち王たちの王、皇帝を意味するシャーハンシャー(shāhanshāh)を自ら用い、皇后にはアラビア語のマリクの女性形であるマリカ(malika)の称号が使われた。(イスラーム革命以前では「パードシャー」で呼ばれていた例も多い)

その他
明朝で編纂された漢語と周辺外国語の対訳語彙集である『華夷譯語』の一編でペルシア語版である「回回館譯語」人物門では、を「パードシャー」 ?????? pādshāh を「[立巴]得沙黒」と漢字音写し「君(君主)」の意味にあてており、同じく「シャー」 ??? shāh を「?諕」と漢字音写し「君」の意味としているが、別の箇所では「パードシャー」 ?????? pādshāh を「[立巴]得?」と写し、「天皇帝」の意味としている箇所もある。

イスラーム時代以降の「シャー」ないし「シャーハンシャー」の君主号は、主にカスピ海南岸のダイラム地方やマーザンダラーン地方一帯のイラン系地方政権で使用されて続けた。サファヴィー朝が「シャー」を名乗ったのは、よく取りざたされる「イラン文化の復興」を根ざした復古的なものとする意見は正しくなく、出身地域を同じくするダイラム地方のブワイフ朝や、ズィヤール朝、マーザンダラーン地方のバーワンド家などと同様に、これらカスピ海南岸の政治勢力が使用してきた「シャー」の称号を伝統に従って自然に名乗ったものだったと解すべきだろう。

参考文献
"Shāh" The Encyclopædia of Islām, vol. 9, San-Sze, C.E. Bosworth, E. van Donzel, W.P. Heinrichs, G. Lecomte eds., 1997. ISBN 9004104224
「シャー」『岩波イスラーム辞典』(大塚和夫ほか編)岩波書店 2002年(ISBN 978-4000802017)
本田實信「「回回館譯語」に就いて」『北海道大學文學部紀要』11号、1963年4月(「回回館訳語」『モンゴル時代史研究』pp.457-533)

関連項目
諸王の王
パーディシャー
マリク
スルターン
ハーン
皇帝

2009年01月15日

ダイオウ属(学名:Rheum)


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ダイオウ属(学名:Rheum)はタデ科の属のひとつ。本属の植物を総称して大黄(だいおう)という。また、生薬・漢方薬の分野では、本属の一部植物の根茎を基原とした生薬を大黄という。

生薬
この属の一部植物の根茎より生薬の大黄(だいおう)が調製される。これには消炎・止血・緩下作用があり、瀉下剤として便秘薬に配合されるほか、漢方医学ではそれを利用した大黄甘草湯に配合されるだけでなく、活血化お(”お”はやまいだれに「於」)作用(停滞した血液の流れを改善する作用と解釈される)を期待して桃核承気湯などに配合される。

日本薬局方では、基原植物をRheum palmatum,R. tanguticum,R. officanale,R. coreanum又はそれらの種間雑種としている。 指標成分は瀉下作用の活性成分であるセンノサイドであり、日本薬局方には最低含有量が規定されているが、活血化お作用を期待して大黄を使用する場合には瀉下作用は副作用となってしまうため、その含量規定は低く抑えられている。

食用
ルバーブ(ショクヨウダイヨウ、マルバダイオウ、R.rhabarbarum)などは野菜の一種として扱われ、茎を砂糖で甘味を付けてジャムにしたりパイの具にするなど、果物と同様の調理で食用にされる。原産地はシベリアだが、欧米では広く栽培されて食用にされ、菓子類のフレーバーとしても定着している。日本でも長野県などでジャム加工用に栽培される。ルバーブにもわずかにセンノサイドを含むことから、敏感な人は下痢をすることがある。葉はシュウ酸を多く含むため食用にはできないが、煮出した液を真鍮や銅を磨くために使用もできる。